徳川の軍を迎え撃つはずだった「上杉の布陣」を、元関東軍参謀で、ナポレオンとフリードリッヒを研究し尽くした石原莞爾が絶賛した。が、「上杉の布陣」は不発に終った。石田三成挙兵の知らせを受け徳川軍が引き上げた為だ。直江兼続はじめ上杉の諸将の無念さはいかばかりか? 激突していたら相当な激戦になっていたと言われている。徳川撤退時、徳川追撃を献策した直江兼続の無念さが伝わってくるシーンであった。九州の黒田如水も同様に、まさか「関ヶ原の戦い」が1日で終わるとは誰も想定出来なかったようである。分かっていれば間違いなく徳川追撃は行われていたとだろう。
架空場面であるが、家康の命乞いの場面は余計と思える。いかに直江兼続が主人公でも、家康に失礼だ。
夫は家康はあまり好んでいないが、ちょっと納得していないようだ。来週は夫が待ちに待った「関ヶ原」、とても楽しみだ。

直江状を読む徳川家康
直江状
直江状(なおえじょう)は、上杉家の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に、慶長5年(1600年)に送った書簡。
現在伝わっている直江状はいくつかあり、内容もそれぞれ微妙に異なっている。原本は残っておらず、これらは後世の写しといわれている。当時使われない文法や不自然な敬語の使い方など内容に疑問があるため後世の改ざん・偽作とする見方もあるが、増田長盛・長束正家等が家康に送った書状や『鹿苑目録』の記録から、承兌が受け取った兼続の返書が存在し、それにより家康が激怒したことは確かのようである。
ウィキペディア(Wikipedia)より