4月11日放送の「歴史秘話ヒストリア」は、関ヶ原で敵の大軍に血路を切り開き、故郷、鹿児島へ帰った「戦国最強クラス」武将・島津義弘の話でした。
番組ホームページ 「歴史秘話ヒストリア 伝説のヒーロー 島津義弘」
大変な人格者、知恵の持ち主で薩摩藩の精神的支柱、礎を作った武将です。毎夏に鹿児島から「関ケ原戦跡踏破隊」として、関ヶ原の戦いで敗れた島津藩が鹿児島へ帰ったルートを辿る活動がされています。
2014年に関ケ原、島津義弘の陣地跡で撮った写真です。
昭和35年から続いている「関ケ原戦跡踏破」に参加された方のお名前が刻まれています。
歴史秘話ヒストリアでも最後に紹介されていました。
現代の子供たちが先人の生き方を学んで欲しいという取り組みです。
暑い中、山道を歩く子供たち。
偶然見た番組でしたが、とても良かったです。鹿児島の人たちが強く優しい理由がわかったような気がしました。
2018年04月12日
2017年11月10日
11月10日、マルティン・ルター生誕の日
今日、11月10日はマルティン・ルター(1483-1546)の誕生日です。ルターが1517年10月31日に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出してから丁度今年が500年になり、昨年からルター関連のイベントがドイツあちこちで行われています。先月私たちがドイツ、ハンブルグに到着して街を散策していると閉まっている店が多くて、「今日は祝日かしら?」と話していました。それが10月31日、ルターが『95ヶ条の論題』を提出し、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生となった縁の日でした。
翌日、11月1日にガイドさんにハンブルグを案内してもらいました。聖ペトリ教会にあるマルティン・ルターの肖像画、白鳥と一緒に描かれています。白鳥はルターのシンボルですが、ルターと白鳥が一緒に描かれている肖像画は少ないそうです。高校の世界史で強く心に残っているルター、記念すべき日にドイツに来れて良かったと思いました。
白鳥がルターのシンボルの理由: プロテスタント運動の先駆者となったヤン・フスが1415年、火あぶりになる前に「アヒル(チェコ語でフスはアヒルの意味)を焼いても、100年後に白鳥が現れるだろう」と言いました。それがルターと考えられています。
翌日、11月1日にガイドさんにハンブルグを案内してもらいました。聖ペトリ教会にあるマルティン・ルターの肖像画、白鳥と一緒に描かれています。白鳥はルターのシンボルですが、ルターと白鳥が一緒に描かれている肖像画は少ないそうです。高校の世界史で強く心に残っているルター、記念すべき日にドイツに来れて良かったと思いました。
白鳥がルターのシンボルの理由: プロテスタント運動の先駆者となったヤン・フスが1415年、火あぶりになる前に「アヒル(チェコ語でフスはアヒルの意味)を焼いても、100年後に白鳥が現れるだろう」と言いました。それがルターと考えられています。
2017年09月16日
徳川吉宗公に献上されたゾウ、27時間テレビ「にほんのれきし」
FNS27時間テレビのテーマ、「にほんのれきし」が9月9日-10日に放送されました。「めざましテレビ」では約290年前にベトナムから船に乗ってやってきた象の特集でした。象は長崎から2ヵ月かけて江戸へ向かいました。その道のりと当時の資料を検証する面白い番組でした。そして市原ぞうの国の「りり香ちゃん」が出演してます! お友達のたまこさんに番組のお知らせいただきました。ありがとうございました
番組ホームページ
日本に初めて象が来たのは1408年、足利義持に献上のためだったそうです。
1728年、ベトナムから徳川吉宗に献上される象が長崎に着きました。オス、メスの2頭でしたが、日本についてすぐにメスは死んでしまいました。長崎から江戸まで歩いて移動しました。
浅い川は歩いて渡ったけれど、深い川は船をつないで、周りをムシロで覆い象が怖がらないように乗せたそうです。吉宗公への献上品ということで、各藩いろいろと知恵をしぼり努力されたそうです。
川あれば山もあります。
浜松にある「象鳴き坂」、最大30度の急斜面につらくて象が泣いたことが名の由来です。
とべ動物園のアフリカゾウの飼育員、椎名修さんから説明を受けてました。ぞうの足の裏は真っ平でひっかかりがなく、坂道を歩くのはむかない、とのことです。
当時のベトナム象の取り扱い説明書? に書かれている内容の検証をします。
当時7歳の雄ぞうのサイズは、現在の4歳のメス象、りり香ちゃんとほぼ同じサイズです。
「象はベトナム語しか分からない」、という取説内容は本当かウソか?
答えはウソ! りり香ちゃんに「バイバイ」と言うと、鼻でバイバイとしてくれます。「ありがとう」と言うと、頭をさげて「パオーン」と鳴き応えてくれました。(私も王子動物園のイベントでりり香ちゃんに応えてもらいました!) 知能が高い象は何語でも覚えることができ、市原ぞうの国ではタイ語と日本語を交えてトレーニングしているそうです。
吉宗公に献上された象ですが、維持費がかかるために手放されて、中野で飼われることになりました。が、1年8か月で亡くなってしまいました。
中野坂上の宝仙寺で骨と牙が祭られ供養されているそうです。生きているうちに沢山の人の見世物になったので、今は一般公開していないそうです。
番組ホームページ
日本に初めて象が来たのは1408年、足利義持に献上のためだったそうです。
1728年、ベトナムから徳川吉宗に献上される象が長崎に着きました。オス、メスの2頭でしたが、日本についてすぐにメスは死んでしまいました。長崎から江戸まで歩いて移動しました。
浅い川は歩いて渡ったけれど、深い川は船をつないで、周りをムシロで覆い象が怖がらないように乗せたそうです。吉宗公への献上品ということで、各藩いろいろと知恵をしぼり努力されたそうです。
川あれば山もあります。
浜松にある「象鳴き坂」、最大30度の急斜面につらくて象が泣いたことが名の由来です。
とべ動物園のアフリカゾウの飼育員、椎名修さんから説明を受けてました。ぞうの足の裏は真っ平でひっかかりがなく、坂道を歩くのはむかない、とのことです。
当時のベトナム象の取り扱い説明書? に書かれている内容の検証をします。
当時7歳の雄ぞうのサイズは、現在の4歳のメス象、りり香ちゃんとほぼ同じサイズです。
「象はベトナム語しか分からない」、という取説内容は本当かウソか?
答えはウソ! りり香ちゃんに「バイバイ」と言うと、鼻でバイバイとしてくれます。「ありがとう」と言うと、頭をさげて「パオーン」と鳴き応えてくれました。(私も王子動物園のイベントでりり香ちゃんに応えてもらいました!) 知能が高い象は何語でも覚えることができ、市原ぞうの国ではタイ語と日本語を交えてトレーニングしているそうです。
吉宗公に献上された象ですが、維持費がかかるために手放されて、中野で飼われることになりました。が、1年8か月で亡くなってしまいました。
中野坂上の宝仙寺で骨と牙が祭られ供養されているそうです。生きているうちに沢山の人の見世物になったので、今は一般公開していないそうです。
2016年10月18日
栃木県佐野市犬伏の薬師堂ー真田親子の決断の地
栃木県佐野市犬伏の薬師堂に行きました。真田親子が別れを決断した場所です。関連記事:大河ドラマ「真田丸」の名場面
夫が中を覗いています。
中には真田昌幸、信之、信繁の鎧がおいてありました。
夕刻の日が傾いた時間、小さな古いお堂はもの悲しさが漂っていて、ドラマ真田丸とは違う「犬伏の別れ」を連想しました。
薬師堂
栃木県佐野市犬伏新町2060番地2他
夫が中を覗いています。
中には真田昌幸、信之、信繁の鎧がおいてありました。
夕刻の日が傾いた時間、小さな古いお堂はもの悲しさが漂っていて、ドラマ真田丸とは違う「犬伏の別れ」を連想しました。
薬師堂
栃木県佐野市犬伏新町2060番地2他
2016年04月28日
ハムレットの城、デンマークのクロンボー城-Le château Kronborg,c'est le château de Hamlet
15回目のフランス語文です。映画「リリーのすべて」がとても印象深くて、2008年デンマーク旅行で買った美術館の図録・ガイドブックを見ていました。ハムレットの城で有名なクロンボー城の訪れたことを思い出しました。つい数日前シェークスピア没後400年記念で、たくさんのイベントが開かれていました。ハムレット、シェークスピアの作品になるまで経緯があったこと、ガイドブックを見て初めて知りました。いつものようにフランス語文を意訳しています。フランス語の先生に大きく編集していただいてます。先生、いつもありがとうございます。
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1ヶ月前に「リリーのすべて」という映画を観ました。初めて性転換手術をしたリリー・エルベの話です。エイナル・ヴェゲネルとして生まれ、妻のゲルダと共に画家でした。どのシーンも美しくて、好みの映画です。2008年に私達が旅行したコペンハーゲンで撮影されていて、赤、緑、青などの建物に、歴史的な建物、昔の屋台の魚屋が見れました。
リリー・エルベとゲルダ・ヴェゲネルの絵を現地で見たかどうか知りたくて、デンマーク国立美術館、フレデリクスボー城、クロンボー城で買った図録・ガイドブックを探して見てみました。残念ながら彼らの絵はガイドブックになかったのですが、他に興味深い内容がありずっと読んでいました。
クロンボー城はユネスコの世界遺産に登録されていて、ハムレットの城としてとても有名です。デンマークの年代記にはサクソ・グラマティクス(1200年頃)がAmlethでデンマークの伝説の英雄の話を書き、それがハムレットのオリジナルだと言われています。フランス作家、ベル・フォレストがHistoires tragiques(1564-1582) でグラマティクスのAmlethを脚色し、それをトーマス・キッドが英語に翻訳しました。そしてそれをベースにシェークスピアがハムレットを完成させました。
クロンボー城の一室で、どのようにハムレットのオリジナル話が外国人作家に渡っていったかの展示があります。お城は冬は15時に閉まり、時間に間に合わなくて見る事ができませんでした。お城に行くのに私が電車を間違えてしまったので、夫は怒っていました。美しい礼拝堂と、地下にある部屋を見ることはできました。そこで座って腕を組んでいる伝説の英雄、オジエ・ル・ダノワの石像を観ました。王国が攻撃されたら、石が肉と血に変わり、オジエ・ル・ダノワが立ち上がって自国を守るために戦うのです。
お城を観た後、私達はお城の周りを歩きました。スウェーデンの港街、ヘルシンボリとたった7kmしか離れていません。昔はこのクロンボー城がデンマークにとっていかに重要な砦であったか理解できました。
Il y a un mois j'ai vu Danish Girl, un film qui raconte la vie de Lili Elbe, la première intersexuelle opérée. Née Einar Wegener, elle et sa femme Gerda étaient peintres. J'ai aimé ce film car chaque scène était très belle. Il a été tourné à Copenhagen où nous sommes allés en 2008. C'est une belle ville avec ses rangés de boutiques roses, vertes, bleues, ses anciennes halles au poisson, ses monuments historiques. Ce film m'a rappelé notre voyage au Danemark.
J'ai recherché parmi mes livres les guides que j'avais achetés au musée national du Danemark, au château Frederiksborg et au château Kronborg. Parce que je voulais savoir si j'avais déjà vu des œuvres des peintres qu'on voyait dans le film. Je n'en ai pas trouvé mais je me suis mise à lire ces guides. Je ne pouvais plus m'arrêter, j'étais captivée.
Le château Kronborg, inscrit au patrimoine mondial de l'Unesco, est trés connu pour être le château de Hamlet. Selon la chronique danoise, Saxo Grammaticus, qui a vécu vers 1200, a écrit l'histoire de Amleth, un héros légendaire danois et c'est cette histoire qui est à l'origine de Hamlet. L'écrivain français Belleforest a publié dans Histoires tragiques(1564-1582) une adaptation du Amleth de Saxo Grammaticus. C'est la traduction de Belleforest par Thomas Kyd qui a servi de base à Shakespeare pour rédiger son Hamlet.
Dans le château il y a une exposition qui explique comment la légende a été reprise par des écrivains étrangers mais je n'ai pas pu la voir par manque de temps, le château ferme à 15 heures en hiver. Mon mari n'était pas content parce que je me suis trompée de train pour y aller. Nous avons vu la chapelle, très belle, et un bâtiment de deux étages comprenant plusieurs salles. Nous avons repéré une statue en pierre de Ogier le Danois (Holger Danske). C'est un héros légendaire. Il est représenté assis, les bras croisés. Si le royaume est attaqué, la pierre deviendra chair et sang et Ogier le Danois se lèvera pour défendre son pays.
Après la visite, nous nous sommes promenés autour du château et avons vu la côte suédoise. Kronborg n'est qu'à 7 km de Helsingbrog, une ville côtière suédoise. On comprend facilement qu'autrefois le château Kronborg était vraiment une forteresse importante pour le Danemark.
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1ヶ月前に「リリーのすべて」という映画を観ました。初めて性転換手術をしたリリー・エルベの話です。エイナル・ヴェゲネルとして生まれ、妻のゲルダと共に画家でした。どのシーンも美しくて、好みの映画です。2008年に私達が旅行したコペンハーゲンで撮影されていて、赤、緑、青などの建物に、歴史的な建物、昔の屋台の魚屋が見れました。
リリー・エルベとゲルダ・ヴェゲネルの絵を現地で見たかどうか知りたくて、デンマーク国立美術館、フレデリクスボー城、クロンボー城で買った図録・ガイドブックを探して見てみました。残念ながら彼らの絵はガイドブックになかったのですが、他に興味深い内容がありずっと読んでいました。
クロンボー城はユネスコの世界遺産に登録されていて、ハムレットの城としてとても有名です。デンマークの年代記にはサクソ・グラマティクス(1200年頃)がAmlethでデンマークの伝説の英雄の話を書き、それがハムレットのオリジナルだと言われています。フランス作家、ベル・フォレストがHistoires tragiques(1564-1582) でグラマティクスのAmlethを脚色し、それをトーマス・キッドが英語に翻訳しました。そしてそれをベースにシェークスピアがハムレットを完成させました。
クロンボー城の一室で、どのようにハムレットのオリジナル話が外国人作家に渡っていったかの展示があります。お城は冬は15時に閉まり、時間に間に合わなくて見る事ができませんでした。お城に行くのに私が電車を間違えてしまったので、夫は怒っていました。美しい礼拝堂と、地下にある部屋を見ることはできました。そこで座って腕を組んでいる伝説の英雄、オジエ・ル・ダノワの石像を観ました。王国が攻撃されたら、石が肉と血に変わり、オジエ・ル・ダノワが立ち上がって自国を守るために戦うのです。
お城を観た後、私達はお城の周りを歩きました。スウェーデンの港街、ヘルシンボリとたった7kmしか離れていません。昔はこのクロンボー城がデンマークにとっていかに重要な砦であったか理解できました。
Il y a un mois j'ai vu Danish Girl, un film qui raconte la vie de Lili Elbe, la première intersexuelle opérée. Née Einar Wegener, elle et sa femme Gerda étaient peintres. J'ai aimé ce film car chaque scène était très belle. Il a été tourné à Copenhagen où nous sommes allés en 2008. C'est une belle ville avec ses rangés de boutiques roses, vertes, bleues, ses anciennes halles au poisson, ses monuments historiques. Ce film m'a rappelé notre voyage au Danemark.
J'ai recherché parmi mes livres les guides que j'avais achetés au musée national du Danemark, au château Frederiksborg et au château Kronborg. Parce que je voulais savoir si j'avais déjà vu des œuvres des peintres qu'on voyait dans le film. Je n'en ai pas trouvé mais je me suis mise à lire ces guides. Je ne pouvais plus m'arrêter, j'étais captivée.
Le château Kronborg, inscrit au patrimoine mondial de l'Unesco, est trés connu pour être le château de Hamlet. Selon la chronique danoise, Saxo Grammaticus, qui a vécu vers 1200, a écrit l'histoire de Amleth, un héros légendaire danois et c'est cette histoire qui est à l'origine de Hamlet. L'écrivain français Belleforest a publié dans Histoires tragiques(1564-1582) une adaptation du Amleth de Saxo Grammaticus. C'est la traduction de Belleforest par Thomas Kyd qui a servi de base à Shakespeare pour rédiger son Hamlet.
Dans le château il y a une exposition qui explique comment la légende a été reprise par des écrivains étrangers mais je n'ai pas pu la voir par manque de temps, le château ferme à 15 heures en hiver. Mon mari n'était pas content parce que je me suis trompée de train pour y aller. Nous avons vu la chapelle, très belle, et un bâtiment de deux étages comprenant plusieurs salles. Nous avons repéré une statue en pierre de Ogier le Danois (Holger Danske). C'est un héros légendaire. Il est représenté assis, les bras croisés. Si le royaume est attaqué, la pierre deviendra chair et sang et Ogier le Danois se lèvera pour défendre son pays.
Après la visite, nous nous sommes promenés autour du château et avons vu la côte suédoise. Kronborg n'est qu'à 7 km de Helsingbrog, une ville côtière suédoise. On comprend facilement qu'autrefois le château Kronborg était vraiment une forteresse importante pour le Danemark.
ラベル:en français
2015年12月10日
フリードリッヒ2世の愛したサン・スーシ宮殿 - Sans-souci où Frédéric II aimait
フランス語文の7回目です。ドイツでポツダムに行ったときに、NHKの番組「王たちの城-フリードリッヒ2世とサン・スーシ宮殿」を思い出しました。帰ってきてからビデオを観なおし大変感動しました。私の稚拙な文を立派な文章に直していただきました。先生、いつもありがとうございます。日本語文は意訳になっています。
---------------------------------------------------------------
11月13日、パリがテロに攻撃されたとき、私達はスロヴァキアの首都ブラチスラヴァにいました。3日後、夫の上司達からフランス行きは避けるように連絡があったので、旅行の計画を変更しました。それで予定より2日早くベルリンに入りました。
ベルリンからポツダム行きのツアーに参加しました。ポツダムには「サン・スーシ」と「ノイエ・パレ」という宮殿があります。サン・スーシはフランス語で「憂いなし」「心配なし」という意味で、ノイエ・パレはドイツ語で新宮殿の意味です。
どちらもプロイセンの王、フリードリッヒ2世(1712-1786)によって建てられました。フリードリッヒは子供の頃から哲学、芸術、フランスの文化が大好きでした。が、父王はフリードリッヒに軍事的な教育だけをさせ、フリードリッヒのフルートもフランス語の本も焼いてしまいました。父王はフリードリッヒを頻繁に恐ろしい程叩きました。フリードリッヒはイギリスに逃亡を試みましたが、国境付近で捕らわれました。父王はフリードリッヒの処刑は赦しましたが、彼の目の前で逃亡を手伝った親友を処刑しました。その時からフリードリッヒは、二つの顔を持つことになります。ひとつは父王が決めたハプスブルグの令嬢と結婚することで逃亡の罪を赦され、皇太子に復継承した姿。もうひとつは哲学、芸術に情熱を傾ける姿。
フリードリッヒは父王が選んだ王妃に心を開くことがなく、サン・スーシ宮殿にはフランス、ロココ調の部屋が10室ある中、王妃の部屋はありませんでした。フリードリッヒはこのサン・スーシ宮殿を愛し、友人と犬にかこまれて過ごしました。
フリードリッヒはフランスの哲学者、ヴォルテールから沢山のことを教わり、自分でも論文を書いています。「君主は国の一番の下僕であり、国民の幸せのための道具だ」
7年戦争が終わった後、フリードリッヒはヴェルサイユ宮殿を真似た、豪華な部屋が200室以上ある新宮殿を建てました。装飾、調度品は全てプロイセンで作られました。フリードリッヒが戦争で繁栄していた街を壊し、大勢の兵を不幸にしたことを後悔して、この宮殿のために働く国民のために何億ものお金を払いました。
フリードリッヒは大好きだったサン・スーシ宮殿の側に埋葬されています。お墓参りに来る人達はジャガイモを墓石の上に置きます。この地方の痩せた土地にジャガイモを根付かせてくれた、フリードリッヒへの感謝なのです。
Le 13 novembre, quand Paris a été frappé par les attentats, nous étions à Bratislava, capitale de la Slovaquie. 3 jours après, j'ai changé notre programme de voyage car les patrons de mon mari nous ont demandé d'éviter d'aller en France. Nous étions donc à Berlin 2 jours plus tôt que prévu.
Nous avons participé à une excursion à Potsdam. Il y a deux châteaux, le "Sans Souci" et le "Neues Palais"(nouveau château).
Sans-souci
Ils ont été construits par Frédéric U(1712-1786), roi de Prusse. Très tôt, il s'est passionné pour la philosophie, les arts et la culture française. Mais son père ne voulait lui donner qu'une éducation militaire et il lui a brûlé sa flûte et ses livres français. Il le frappait violemment et fréquemment. Frédéric a tenté de fuir à l'Angleterre mais il a été arrêté près de la frontière. Son père l'a épargné mais le meilleur ami de Frédéric, qui l'avait accompagné, a été exécuté sous les yeux de Frédéric. A partir de ce moment terrible, Frédéric a deux visages, d'une part, il y a le prince héritier qui a été pardonné après avoir épousé une Habsbourg choisie par son père, et d'autre part, c'est un homme d'esprit passionné de philosophie et d'art.
Sans-souci
Frédéric est toujours resté distant avec sa femme, le palais de Sans-souci comprenait 10 pièces dans le style rococo mais pas de chambre pour l'épouse de Frédéric. Il aimait beaucoup ce château où il a passé beaucoup de temps en compagnie de ses amis et de ses chiens.
Il a beaucoup appris de Voltaire et il écrit des articles. "Le monarque est le premier serveur de la Etat, un outil pour le bonheur du peuple"
Après la guerre de Sept Ans, il a fait construire le "Neues Palais" sur le modèle du château de Versailles, avec 200 salles décorées luxueusement. Les décorations ont été réalisées en Prusse, ces dépenses importantes étant un moyen d'exprimer ses regrets après une guerre meurtrière qui a entraîné la destruction de belles villes et fait le malheur de nombreux soldats.
"Neues Palais"
Frédéric II est enterré près de Sans-souci qu'il aimait tant. Des visiteurs déposent des pommes de terre sur sa tombe pour le remercier d'avoir fait cultiver la pomme de terre dans ces régions à la terre pauvre.
La tombe de Frédéric II
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11月13日、パリがテロに攻撃されたとき、私達はスロヴァキアの首都ブラチスラヴァにいました。3日後、夫の上司達からフランス行きは避けるように連絡があったので、旅行の計画を変更しました。それで予定より2日早くベルリンに入りました。
ベルリンからポツダム行きのツアーに参加しました。ポツダムには「サン・スーシ」と「ノイエ・パレ」という宮殿があります。サン・スーシはフランス語で「憂いなし」「心配なし」という意味で、ノイエ・パレはドイツ語で新宮殿の意味です。
どちらもプロイセンの王、フリードリッヒ2世(1712-1786)によって建てられました。フリードリッヒは子供の頃から哲学、芸術、フランスの文化が大好きでした。が、父王はフリードリッヒに軍事的な教育だけをさせ、フリードリッヒのフルートもフランス語の本も焼いてしまいました。父王はフリードリッヒを頻繁に恐ろしい程叩きました。フリードリッヒはイギリスに逃亡を試みましたが、国境付近で捕らわれました。父王はフリードリッヒの処刑は赦しましたが、彼の目の前で逃亡を手伝った親友を処刑しました。その時からフリードリッヒは、二つの顔を持つことになります。ひとつは父王が決めたハプスブルグの令嬢と結婚することで逃亡の罪を赦され、皇太子に復継承した姿。もうひとつは哲学、芸術に情熱を傾ける姿。
フリードリッヒは父王が選んだ王妃に心を開くことがなく、サン・スーシ宮殿にはフランス、ロココ調の部屋が10室ある中、王妃の部屋はありませんでした。フリードリッヒはこのサン・スーシ宮殿を愛し、友人と犬にかこまれて過ごしました。
フリードリッヒはフランスの哲学者、ヴォルテールから沢山のことを教わり、自分でも論文を書いています。「君主は国の一番の下僕であり、国民の幸せのための道具だ」
7年戦争が終わった後、フリードリッヒはヴェルサイユ宮殿を真似た、豪華な部屋が200室以上ある新宮殿を建てました。装飾、調度品は全てプロイセンで作られました。フリードリッヒが戦争で繁栄していた街を壊し、大勢の兵を不幸にしたことを後悔して、この宮殿のために働く国民のために何億ものお金を払いました。
フリードリッヒは大好きだったサン・スーシ宮殿の側に埋葬されています。お墓参りに来る人達はジャガイモを墓石の上に置きます。この地方の痩せた土地にジャガイモを根付かせてくれた、フリードリッヒへの感謝なのです。
Le 13 novembre, quand Paris a été frappé par les attentats, nous étions à Bratislava, capitale de la Slovaquie. 3 jours après, j'ai changé notre programme de voyage car les patrons de mon mari nous ont demandé d'éviter d'aller en France. Nous étions donc à Berlin 2 jours plus tôt que prévu.
Nous avons participé à une excursion à Potsdam. Il y a deux châteaux, le "Sans Souci" et le "Neues Palais"(nouveau château).
Sans-souci
Ils ont été construits par Frédéric U(1712-1786), roi de Prusse. Très tôt, il s'est passionné pour la philosophie, les arts et la culture française. Mais son père ne voulait lui donner qu'une éducation militaire et il lui a brûlé sa flûte et ses livres français. Il le frappait violemment et fréquemment. Frédéric a tenté de fuir à l'Angleterre mais il a été arrêté près de la frontière. Son père l'a épargné mais le meilleur ami de Frédéric, qui l'avait accompagné, a été exécuté sous les yeux de Frédéric. A partir de ce moment terrible, Frédéric a deux visages, d'une part, il y a le prince héritier qui a été pardonné après avoir épousé une Habsbourg choisie par son père, et d'autre part, c'est un homme d'esprit passionné de philosophie et d'art.
Sans-souci
Frédéric est toujours resté distant avec sa femme, le palais de Sans-souci comprenait 10 pièces dans le style rococo mais pas de chambre pour l'épouse de Frédéric. Il aimait beaucoup ce château où il a passé beaucoup de temps en compagnie de ses amis et de ses chiens.
Il a beaucoup appris de Voltaire et il écrit des articles. "Le monarque est le premier serveur de la Etat, un outil pour le bonheur du peuple"
Après la guerre de Sept Ans, il a fait construire le "Neues Palais" sur le modèle du château de Versailles, avec 200 salles décorées luxueusement. Les décorations ont été réalisées en Prusse, ces dépenses importantes étant un moyen d'exprimer ses regrets après une guerre meurtrière qui a entraîné la destruction de belles villes et fait le malheur de nombreux soldats.
"Neues Palais"
Frédéric II est enterré près de Sans-souci qu'il aimait tant. Des visiteurs déposent des pommes de terre sur sa tombe pour le remercier d'avoir fait cultiver la pomme de terre dans ces régions à la terre pauvre.
La tombe de Frédéric II
ラベル:en français
2014年11月30日
「美しき青きドナウ」の歌詞、2007年 NHK「ハイビジョン特集 ハプスブルグ帝国」より
ブルーレィディスクに初めて録画した番組、2007年放送のNHK「ハイビジョン特集 ハプスブルグ帝国」。
三回のシリーズでハプスブルグ帝国の起こりから崩壊までを、マクシミリアン一世、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフを主人公にして描いた番組。どうやってハプスブルグ家が他民族を率いる大帝国を作っていったのか、本当によく分る。真に迫ってくるように流れる音楽が、帝国の繁栄と悲哀の最高の効果音になっている。
オーストリア=ハンガリー帝国になったときのハンガリーでの戴冠式の絵
数々のエピソードが紹介されているが、「第3回 美しく青きドナウ」はフランツ・ヨーゼフの統治から帝国崩壊を描いていて、今見るとこれが一番心に残った。
「美しく青きドナウ」は1866年の普墺戦争で大敗し、失望の底に沈んだウィーン市民を慰めるために、ヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツで、当時は今と違う歌詞がついていた。
美しく青きドナウ
政治家、批評家の先生たちも
分別くさげに輪になって踊る
一見小粋に見えるけれど
そのくせ全然動かない
あの連中のワルツでは
浮いた気分をこわすだけ
どんなに短く楽譜を書いても
いつも調子っぱずれ
休まず踊れ
刹那を上手に利用しろ
幸せは二度と戻ってこない
今日手に入れたものならば
さっさとつかってしまえ
時の経つのははやいもの
喜びのバラはあせるもの
されば踊れよ さあ踊れ
あの美しいワルツにこんな歌詞がついていたとは驚きだ。人々は帝国の落日に向かっていることを知っていた。
10年以上前に私は2回ウィーンを訪れたが、特に好きな街ではなかった。立派で大きな建造物が沢山あって、彫刻がやたら多い。音楽の街だけれど、ワルツは華やかでどうも馴染めない。そんな自分の小さな先入観でしか見ることができなかった。ヨーロッパを周ってきたが、ハプスブルグ家に影響を受けていない国はないように思う。この番組を今見直して、またウィーンに行きたくなった。今度訪れたらもっと違った目で、ハプスブルグ帝国が残したウィーンの街を見れると思う。
ハイビジョン特集 ハプスブルグ帝国
第1回 双頭の鷲(わし)の下に
ハプスブルグ家はもとはスイスの領主だった。15世紀、マクシミリアン一世によって、フランドルの先進的な制度や文化を取り入れ、インスブルックを拠点に繁栄を築いていくまでを描く
第2回 女帝マリア・テレジア
多くの障害を乗り越えて権威を確立し、シェーンブルン宮殿など絢爛たる文化を花開かせていくとともに、帝都ウィーンを発展させていった過程を描く。
第3回 美しく青きドナウ
1848年の即位直後から、民族独立運動の台頭にさらされた皇帝フランツ・ヨーゼフが必死に帝国を束ねようとしながら第一次世界大戦に突入、やがて帝国の崩壊を招く過程を追う。皇妃エリザベートや、ウィーンに花開いた新しい文化を交えて描く。
三回のシリーズでハプスブルグ帝国の起こりから崩壊までを、マクシミリアン一世、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフを主人公にして描いた番組。どうやってハプスブルグ家が他民族を率いる大帝国を作っていったのか、本当によく分る。真に迫ってくるように流れる音楽が、帝国の繁栄と悲哀の最高の効果音になっている。
オーストリア=ハンガリー帝国になったときのハンガリーでの戴冠式の絵
数々のエピソードが紹介されているが、「第3回 美しく青きドナウ」はフランツ・ヨーゼフの統治から帝国崩壊を描いていて、今見るとこれが一番心に残った。
「美しく青きドナウ」は1866年の普墺戦争で大敗し、失望の底に沈んだウィーン市民を慰めるために、ヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツで、当時は今と違う歌詞がついていた。
美しく青きドナウ
政治家、批評家の先生たちも
分別くさげに輪になって踊る
一見小粋に見えるけれど
そのくせ全然動かない
あの連中のワルツでは
浮いた気分をこわすだけ
どんなに短く楽譜を書いても
いつも調子っぱずれ
休まず踊れ
刹那を上手に利用しろ
幸せは二度と戻ってこない
今日手に入れたものならば
さっさとつかってしまえ
時の経つのははやいもの
喜びのバラはあせるもの
されば踊れよ さあ踊れ
あの美しいワルツにこんな歌詞がついていたとは驚きだ。人々は帝国の落日に向かっていることを知っていた。
10年以上前に私は2回ウィーンを訪れたが、特に好きな街ではなかった。立派で大きな建造物が沢山あって、彫刻がやたら多い。音楽の街だけれど、ワルツは華やかでどうも馴染めない。そんな自分の小さな先入観でしか見ることができなかった。ヨーロッパを周ってきたが、ハプスブルグ家に影響を受けていない国はないように思う。この番組を今見直して、またウィーンに行きたくなった。今度訪れたらもっと違った目で、ハプスブルグ帝国が残したウィーンの街を見れると思う。
ハイビジョン特集 ハプスブルグ帝国
第1回 双頭の鷲(わし)の下に
ハプスブルグ家はもとはスイスの領主だった。15世紀、マクシミリアン一世によって、フランドルの先進的な制度や文化を取り入れ、インスブルックを拠点に繁栄を築いていくまでを描く
第2回 女帝マリア・テレジア
多くの障害を乗り越えて権威を確立し、シェーンブルン宮殿など絢爛たる文化を花開かせていくとともに、帝都ウィーンを発展させていった過程を描く。
第3回 美しく青きドナウ
1848年の即位直後から、民族独立運動の台頭にさらされた皇帝フランツ・ヨーゼフが必死に帝国を束ねようとしながら第一次世界大戦に突入、やがて帝国の崩壊を招く過程を追う。皇妃エリザベートや、ウィーンに花開いた新しい文化を交えて描く。
ラベル:音楽
2009年09月29日
石田三成へのオマージュ
9月27日(日)天地人、関ヶ原後、直江兼続の上洛だ。毛利輝元が長門・周防の二国に減封。石田三成は処刑。司馬遼太郎が語っていたが、豊臣7将の一人、浅野幸長が「三成がいなくなってから、世の中の不正を不正とも思わなくなった!」 潔癖過ぎたのかもしれない。
また黒田如水の言葉で「三成は成功した。あの時点で三成までが家康に走ったなら、世の中の秩序はどうなっていたであろうか!」と言うのもある。天下分け目の戦いまでもって行った事は、豊臣秀吉に対する何よりの供養でだった。
外様大名取りつぶしの徳川の方針から見れば、石田三成の運命は明らかである。徳川に重用されたのは、夫の嫌いな藤堂高虎だ。
石田三成に対するエピソードは色々ある。季節はずれの桃を献上され、「季節はずれで殿下にもしもの事があればどうするのか?」といって献上しなかった話。正論ではあるが、献上した側は気分悪くなる。相手を思いやる気持ちにかけていたようだ。
が、島左近はじめ石田三成に準じた家臣は多く、領民にも慕われた。
関ヶ原後も直江兼続は江戸城攻撃を献策したが、上杉景勝は取り合わなかった。
来週は上杉家が、処分120万石から30万石への減封の話だ。この場面は藤沢周平「密謀」がお勧めだ。
石田三成の処刑
また黒田如水の言葉で「三成は成功した。あの時点で三成までが家康に走ったなら、世の中の秩序はどうなっていたであろうか!」と言うのもある。天下分け目の戦いまでもって行った事は、豊臣秀吉に対する何よりの供養でだった。
外様大名取りつぶしの徳川の方針から見れば、石田三成の運命は明らかである。徳川に重用されたのは、夫の嫌いな藤堂高虎だ。
石田三成に対するエピソードは色々ある。季節はずれの桃を献上され、「季節はずれで殿下にもしもの事があればどうするのか?」といって献上しなかった話。正論ではあるが、献上した側は気分悪くなる。相手を思いやる気持ちにかけていたようだ。
が、島左近はじめ石田三成に準じた家臣は多く、領民にも慕われた。
関ヶ原後も直江兼続は江戸城攻撃を献策したが、上杉景勝は取り合わなかった。
来週は上杉家が、処分120万石から30万石への減封の話だ。この場面は藤沢周平「密謀」がお勧めだ。
石田三成の処刑
2009年09月25日
夫のロマン溢れる「関ヶ原」
9月20日のNHK大河ドラマ「天地人」は、待ちに待った関ヶ原の合戦!
夫はとてもテンションが上がっているようだ。17年前に関ヶ原を訪れた時を思い出す。
暑さや運転疲れもあってか、私は肩が重く気分が悪かった。まるで武者の霊がのしかかっているようで、早く帰りたかったが。。。
関ヶ原では、あちこち移動した。資料館(関ヶ原ウォーランド)、石田三成の陣跡、徳川家康の陣跡。
小早川秀秋が石田三成を裏切った時、小早川秀秋を見限った武将がいたそうである。松野主馬、臆病者では無い事と示す為に、そのまま戦場に残ったそうだ。
反対に小早川秀秋が徳川家康に突っ込んでいれば、松野主馬が血刀を振り乱して先陣をきっていたはず、と興奮している。
この戦場で死んだ一番の大名は、大谷吉継だ。石田三成・小西行長・宇喜多秀家は、戦場から再起を期して逃れた。逃す為に石田三成の配下は最後まで戦ったそうだ。
大谷吉継はらい病の首を曝したくなくて、家臣に首を隠すよう命じた。それを知っていながら、徳川家康に命をかけて喋らなかった藤堂高虎の家臣。夫はこういう話が好きだ。
但し藤堂高虎、小早川秀秋とともに裏切った脇坂安治(播州竜野藩の初代)は嫌いなようだ。
陣形から誰が見ても、石田三成率いる西軍の勝であったようだ。ここまで持ってきた石田三成はよくやった。
関ヶ原ウォーランド
石田三成の陣跡
次回は戦後処理の話になる。さてどうなるのか?直江兼続と小早川秀秋の対面がある。新しい天下人を認めなければならなかった上杉の苦渋がどう描かれるのか、楽しみにしている。来週も待ち遠しい。
夫はとてもテンションが上がっているようだ。17年前に関ヶ原を訪れた時を思い出す。
暑さや運転疲れもあってか、私は肩が重く気分が悪かった。まるで武者の霊がのしかかっているようで、早く帰りたかったが。。。
関ヶ原では、あちこち移動した。資料館(関ヶ原ウォーランド)、石田三成の陣跡、徳川家康の陣跡。
小早川秀秋が石田三成を裏切った時、小早川秀秋を見限った武将がいたそうである。松野主馬、臆病者では無い事と示す為に、そのまま戦場に残ったそうだ。
反対に小早川秀秋が徳川家康に突っ込んでいれば、松野主馬が血刀を振り乱して先陣をきっていたはず、と興奮している。
この戦場で死んだ一番の大名は、大谷吉継だ。石田三成・小西行長・宇喜多秀家は、戦場から再起を期して逃れた。逃す為に石田三成の配下は最後まで戦ったそうだ。
大谷吉継はらい病の首を曝したくなくて、家臣に首を隠すよう命じた。それを知っていながら、徳川家康に命をかけて喋らなかった藤堂高虎の家臣。夫はこういう話が好きだ。
但し藤堂高虎、小早川秀秋とともに裏切った脇坂安治(播州竜野藩の初代)は嫌いなようだ。
陣形から誰が見ても、石田三成率いる西軍の勝であったようだ。ここまで持ってきた石田三成はよくやった。
関ヶ原ウォーランド
石田三成の陣跡
次回は戦後処理の話になる。さてどうなるのか?直江兼続と小早川秀秋の対面がある。新しい天下人を認めなければならなかった上杉の苦渋がどう描かれるのか、楽しみにしている。来週も待ち遠しい。
2009年09月13日
NHK大河ドラマ「天地人」、直江状で家康に挑戦!
9月13日の「天地人」は、直江兼続が「直江状」で徳川家康に挑戦する。この「直江状」は原紙が無く写ししか残っていない。過激な文章なので、本物かどうかは疑問が残るようだ。テレビなので少し柔かくもしているようで、楽しみにしていた最後の、「家康様または秀忠様がこちらに下向されると聞き及びましたが、すべてはその折りにお相手致しましょう」が抜けていた。真偽のほどを疑われているので、省かれたのかもしれないが、ちょっと残念だ。又この時期に上杉から出て行った「藤田能登守・栗田行部」と、上杉に来た「花の慶次、他の豪傑達」とかの話が無くて気に入らない。
徳川の軍を迎え撃つはずだった「上杉の布陣」を、元関東軍参謀で、ナポレオンとフリードリッヒを研究し尽くした石原莞爾が絶賛した。が、「上杉の布陣」は不発に終った。石田三成挙兵の知らせを受け徳川軍が引き上げた為だ。直江兼続はじめ上杉の諸将の無念さはいかばかりか? 激突していたら相当な激戦になっていたと言われている。徳川撤退時、徳川追撃を献策した直江兼続の無念さが伝わってくるシーンであった。九州の黒田如水も同様に、まさか「関ヶ原の戦い」が1日で終わるとは誰も想定出来なかったようである。分かっていれば間違いなく徳川追撃は行われていたとだろう。
架空場面であるが、家康の命乞いの場面は余計と思える。いかに直江兼続が主人公でも、家康に失礼だ。
夫は家康はあまり好んでいないが、ちょっと納得していないようだ。来週は夫が待ちに待った「関ヶ原」、とても楽しみだ。
直江状を読む徳川家康
直江状
直江状(なおえじょう)は、上杉家の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に、慶長5年(1600年)に送った書簡。
現在伝わっている直江状はいくつかあり、内容もそれぞれ微妙に異なっている。原本は残っておらず、これらは後世の写しといわれている。当時使われない文法や不自然な敬語の使い方など内容に疑問があるため後世の改ざん・偽作とする見方もあるが、増田長盛・長束正家等が家康に送った書状や『鹿苑目録』の記録から、承兌が受け取った兼続の返書が存在し、それにより家康が激怒したことは確かのようである。
ウィキペディア(Wikipedia)より
徳川の軍を迎え撃つはずだった「上杉の布陣」を、元関東軍参謀で、ナポレオンとフリードリッヒを研究し尽くした石原莞爾が絶賛した。が、「上杉の布陣」は不発に終った。石田三成挙兵の知らせを受け徳川軍が引き上げた為だ。直江兼続はじめ上杉の諸将の無念さはいかばかりか? 激突していたら相当な激戦になっていたと言われている。徳川撤退時、徳川追撃を献策した直江兼続の無念さが伝わってくるシーンであった。九州の黒田如水も同様に、まさか「関ヶ原の戦い」が1日で終わるとは誰も想定出来なかったようである。分かっていれば間違いなく徳川追撃は行われていたとだろう。
架空場面であるが、家康の命乞いの場面は余計と思える。いかに直江兼続が主人公でも、家康に失礼だ。
夫は家康はあまり好んでいないが、ちょっと納得していないようだ。来週は夫が待ちに待った「関ヶ原」、とても楽しみだ。
直江状を読む徳川家康
直江状
直江状(なおえじょう)は、上杉家の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に、慶長5年(1600年)に送った書簡。
現在伝わっている直江状はいくつかあり、内容もそれぞれ微妙に異なっている。原本は残っておらず、これらは後世の写しといわれている。当時使われない文法や不自然な敬語の使い方など内容に疑問があるため後世の改ざん・偽作とする見方もあるが、増田長盛・長束正家等が家康に送った書状や『鹿苑目録』の記録から、承兌が受け取った兼続の返書が存在し、それにより家康が激怒したことは確かのようである。
ウィキペディア(Wikipedia)より